※士郎さんとギル様の欠落及びそれに付随する私の士金像について。※
※本気で妄想なので磨耗注意(汗)※




士郎を苛む懊悩は、ああいった状況にあれば多かれ少なかれ皆抱くものだと思う。
他を助けられないまま自分が助かれば、自分が悪いのではないと解っていても罪悪感は残るだろう。
それなのに彼だけが歪んだのは、頑ななまでに絶対的な位置にあの過去を置いたから。
絶対のものとしたが故に、その記憶から表出する自分への厭わしい感情も絶対のものとなる。
それ故に、自己を否定するしか術がなかった。

対して、ギルガメッシュの自己否定はエンキドゥに集約される。
外も内も凄まじく強いが故に、だからこそ孤独による欠落を内包してきた。
その彼と拮抗できる存在としてつくられたエンキドゥは、その本質からして彼と対等だった。
対等な存在によって、初めて彼の抱く孤独な欠落は埋められた。
だというのに、自分の行いのせいで、エンキドゥは本来ならば迎えなくてよい死を宣告された。
孤独を運命づけられた筈の欠落を埋めてくれたものを、彼は失い、また孤独になった。
一度埋められた記憶があるだけに、その欠落は以前よりも更に深く大きなものとなった。
彼は、エンキドゥに死をもたらした神々を憎んだ。
半神半人の英雄王は、神の血が半分を占める己の構成を憎んだ。
半分が神であることに端を発する強さから生じる孤独にエンキドゥが絡んだが故に、
彼は自己を肯定する一方で、否定することになった。

士郎は、過去の記憶による自己否定から欠落者となった。
したがって、自己否定の源である過去を相対化できれば欠落は埋められる。
自分を否定する感情が相対的なものになれば、自分を肯定する余地が生まれる。
自分の幸せを求めることも、自分を肯定することもできる。
彼に関しては、欠落を回復する可能性がある。まだ戻ることができる。

しかし、ギルガメッシュの場合、自己否定と欠落はまた別の所に端を発する。
彼はその本質自体に欠落を内包している。
自己否定に強く関わるエンキドゥと出逢うより以前に、
それこそ生まれ落ちた時点から、彼は強さがもたらす孤独という欠落を背負っていた。
半身が神である己の構成を肯定することで、自己否定が解消される可能性はある。
しかしそれは、あくまで自己否定に限っての話である。それで欠落そのものが埋まることはない。
彼の場合、自らの構成に神が含まれることは、欠落の「程度」を深める要素にすぎない。
彼の欠落自体はまさに彼自身に備わる強さから表出したものである。
だから、どう足掻いてもギルガメッシュは完全に欠落を埋めることはできない。
それこそエンキドゥ並に対等で、なおかつエンキドゥの記憶を上書きできるくらいの存在が現れない限り。

過程の違いによる質の差異に気付かずに互いの欠落を埋めあおうとして足掻く二人がいい。
そしてようやく互いの持つ欠落の質が異なるが故に互いを埋めあうことは不可能であると悟るのがいい。
ギルガメッシュの欠落を埋めるには対等の能力を持つ存在が不可欠であるが、
士郎がその欠落を埋めようと自己を改変してエンキドゥのような存在になろうとすれば、
今までと同様に、他者を第一として行動する犠牲的な個である側面を持ってしまうため、
士郎の欠落は埋まらないことに気がつけばいい。
その逆も同様に、士郎の欠落を埋めてしまえば、ギルガメッシュの欠落は埋まらないことに気がつけばいい。
どちらも救われるという道は存在せず、どちらも救われないか、どちらかが救われないかの選択しかないことに気がつけばいい。
二人とも互いを救えると愚鈍なまでに直向に士郎が信じる一方で、英雄王だけが、その綻びに気がつくといい。

相手の欠落を埋めようとして、相手のために前述の対等な存在になろうと足掻く欠落した個のため、
まだ戻れる欠落者をそちらに送り出そうと自身の欠落を埋めるのを諦める個が別離を受容するのがいい。
相手を第一に思う欠落者として、エンキドゥのような存在になろうとして自分を変えようと足掻く個と、
エンキドゥの代替品ではない、衛宮士郎本人の存在を認める個との間の擦れ違いに士郎が気付かないのがいい。

相手を希求したという一点においては自分のため以外の何物でもないことに士郎が気付き、
その事実から遡って過去を相対化させ欠落を埋めればいい。
自己を回復した筈の者が泣けばいい。
歓喜を伴う再誕と同時に、愛する者と共有していた欠落という要素を喪ったことにそこで初めて気付いて泣けばいい。
自己を欠落させたままの筈の者が笑えばいい。
欠落者として再度の諦観を背負うと同時に、選択肢の不在に気付かないままだった相手に、祝福を込めて苦笑すればいい。
そんな救いのない状況でも、自分と対等になろうとしてくれた稀少な存在がいたこと自体に、
微かに、本当に微かにでも彼の欠落が埋まるといい。

無駄なのにそれでも足掻かずにはいられない青い士郎さんが大好き。
再度の孤独と諦観を背負ってなお堂々と歩み始める英雄王が大好き。
そんなどうしようもなく純粋で絶望的な士金が大好き。
何かぐだぐだ語りましたが、まぁアレだ。
ヘタレ天然攻めと照れ我様受は萌えるよねーってのが出発点だというのも否定はしません(笑)

(その後に、欠落を克服した士郎が「彼を想う自分のために」ギルガメッシュの欠落を埋めるべく
対等な存在になろうとするととっても嬉しい。そして直向な青く愚鈍なやり方で士郎に欠落を埋められて、
老成した達観で互いの救いを諦めた英雄王は不可能だと思っていた欠落の相互補填の実現に呆然とすればいい。
荒野で失った涙を、そこで取り戻せばいい。けどこれはちと乙女すぎるので大っぴらに言えない(笑))

いすずちゃんとのメッセで彼女が素敵な説明をしてくれたので、今回の士金が理解できねという方はこちらもできれば見ていただきたいです。↓↓↓





基本的に女の子ルートのどれでも(というか相手が誰だったとしても)、士郎の、大事な人への想い方っていうのは一貫している部分があると思います。
「相手には自分よりも幸せになって欲しい、自分はどうでもいいから」というのがやっぱり必ずどこか基本にある。
だけどギル様に対する場合は、どうあっても対等でいるしかない関係ゆえに、そういう想い方が出来ないような気がします。
どうあっても士郎は自動的に自分を大事に思わなくては、相手への思いを一番奥まで貫けない。
同じ部分が凹んだパズルのピースみたいなものです。
同じ部分が凹んでいるパズルのピースは、どうやっても繋がらないし、組み合わせることは出来ない。
でも、自身の半分をも占める巨大な欠落をもつ人間なんて本当に稀であり、士郎と同形の破片はめったになく。
それゆえに特殊な過去を持つ士郎にとって「けして埋められない永遠の欠落」を持ったギル様という存在は希少なのだと思います。
そういう相手は、埋められない。
同じ形は、埋め合わせあうことができないから、対等であるしかないのです。
だから、自分のピースのどこの辺をどこの角を捧げても埋めてあげることのできない相手を何より大事に思うということは、必然的に自分の形をも同時に好きにならなければならない、ということに帰結するわけです。





ていうかあの長い垂れ流し文読んで下さった上こんな語りまで眼を通して下さるそんな貴女が大好きです(深々



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